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議論・とりまとめの中で、研究・科学に対する定義が異なり、議論がちぐはぐになることがあった。具体的には、「科学」が自然科学のみを指すのか、社会・人文科学を含むのか、といった点や、研究者はみな科学者なのか、といった点が曖昧であったことに依る。反省を踏まえつつ、ここでは研究や科学という語句に対して,理解を深めたいと思う。理解・考察のためには碇が必要なので、ここでは定義の参照先に三省堂の大辞林を引く。
- 「研究」とは、物事について深く考えたり調べたりして真理を明らかにすること、と定義されている。この定義に従えば、数学者、考古学者、文学者、神学者、将棋の棋士、伝統芸能の芸術家などは、みな研究者といって良いだろう。では、彼らは科学者なのだろうか。
- 「科学」とは、自然や社会など世界の特定領域に関する法則的認識を目指す合理的知識の体系または探究の営み、と定義されている。研究の対象と方法の違いに応じて、自然科学・社会科学・人文科学などに分類される。科学とは、先人の知識の蓄積を前提として(i.e., 所謂、巨人の肩の上に立って)自らの論考を展開し、合理的に知識の体系・探求化(巨人の形成)を図る営みと読み取れる。合理的の定義は人によって異なり得るが、仮説検証的であること、再現性があること、推論が論理的であること、などは必要条件として挙げられよう。
- この定義に照らせば、「Aという描写はBという心情を射影している」、「C型銅鏡から、D型銅鏡に時代的に変遷する」、「Eという戦型からFという戦型に発展する」といった発見は、先人の知識に立脚し、合理的な考察であれば、何れも科学と呼べよう。逆に言えば、巨人形成の営みに属さない、科学者ではない研究者は存在しうる。個人的な経験であるが、海外の学術誌に論文を投稿すると、引用文献へのコメントを非常によく受ける。その分野の地図を拡げ、何が分かっておらず,何を明らかにしたのかを、つまり巨人の成長をはっきりと問われる様に感じる。しかし、全く新しい研究では、そもそも既往文献は存在し得ないはずである
- 「科学」という語は、もともとは中国の科挙で試される学問「科挙之学」の略語であったようだ(佐々木、1996)。その意味では、教養としての学問は全て科学といって良いように思う。明治になり、scienceという新語に対して、西周が科学を充てた。そんな経緯もあって、「科学」が「自然科学」を代表する様に感じるのだろう。現在では、自然科学はnatural science, 社会科学はsocial science, 人文科学はhumanitiesと訳される。つまり、科学とscienceは厳密には異なる概念であるといえる。
- また、科学については、経験科学と形式科学、といった分類もある。形式科学は、数学・論理学・言語学などの、記号システムによって記述される抽象的概念を扱う。一方、経験科学とは、自然科学や社会科学の様に、人間による観測的事実が原点となって、帰納・演繹を重ねられた知識の体系である。
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感想
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ここに、工学・理学の観点を入れると面白そう。
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2020.07.16 [学習メモ] 研究と科学
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