後輩に,「悪人礼賛」なる概念を教えてもらいました.その骨子の1つは,表題の「善意の善ほど扱い難いものは無し」だと認識しています.これを,最近学んだニーチェのルサンチマンの議論を使って考えてみました.
[ルサンチマン(僕の理解)]
動物的に,強者とは強い力を持つ超人であった.
弱者は,強者に力で対峙しても適わない.なので,大衆は宗教(特にキリスト教)を持ち出し,「利他的な行いは善」であるという刷り込みを行った.
つまり,キリスト教は弱者・大衆から超人に対するルサンチマン(怨念)なのである.
(その後,神の死につながる議論.この辺はまだ理解に至らず)
[善意の善,に対する考察]
考えるまでもなく,「根源的な善」とは,「行為者の道徳的な善悪」ではなく,「その行為が引き起こした結果」である.然し,時代が進む中で,その順序が逆になった.そして,「道徳的には悪」なモチベーションな下での「結果」を偽善とし,寧ろ悪い行いであると断罪されるようになっている.日本の政治家に対する始点も,まさにこの枠組みで行われており,結果に目が向けられていないように僕自身は感じる.
この道徳的価値観の転換も,大衆の超人に対するルサンチマンの一環として解釈することができる.
悪人礼賛の述べる,善意の善は,「行為者自身の道徳的善」に基づく,「行為者の信ずる善」を述べている.これは,いかにも大衆の考える自己正当化のルサンチマンの一環に見える.そして,「善意の善ほど処しがたいものは無し」の認識は,「行為者の信ずる善」が「私の善」ではないときに浮かび上がる気がするのである.その場合,少なくとも私にとっては,「行為者の信ずる善」は善ではないのである.
というわけで,「善意の善」は善ではない,というのが私の結論です.
いわゆる,大衆によるルサンチマンの一環の様に思います.
似たような概念:
- 河合速雄: 世の中に正論ほど役に立たないものはない