大学の後輩から、飲み会の席で質問を受けて、何故心がざわついたのか分析。
アドラー心理学的分析は、本当に偉大。
(背景)
小槻:衛星データや大規模データを使い、地球規模のマクロな研究
後輩:現地気象観測までやって、ちゃんと自然現象を視て研究
下記、返信のメールより。
水水、お世話になりました。
さて、大会前日に峠先生に頂いた表題のコメントですが、僕の中に少なからず澱を残していました。
つまり、痛いところを突かれたなって感覚があったからです。
同時に、自分でも良く理解できない違和感もありました。
この辺り、ちょっと今日バイクに乗りながら考えていたので、せっかくなので考え事を共有します。
[問: 全球で研究しても、薄い議論しかできないんじゃないでしょうか?]
1.薄い議論とは?
2.態度の問題
3.薄い議論がダメなのか?
4.暗黙の仮定
5.自己正当化のための回答を作っていないか?
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1.薄い議論とは?
この「薄さ」は、「自然現象に対して薄い議論」を暗黙の仮定としている様に思われる。
注意を要するのは、「自然現象に対する造詣の深さ」と「科学としての知識を深めたか否か」が異なる事である。
例えば、バーチャルウォーターなどは、現象としてはマクロで薄い議論をしている(個人の主観)。
しかし、それが新しい切り口・人類の考えなかった切り口を与えたために、おそらく世界は評価しているのだ。
「科学としての深さ」は、「人類の知識を深めたかどうか」という物差しで測られている。
最近、サハラ砂漠でソーラー発電したら、サハラで雨も増えるンゴ!みたいな論文がSCIENCEに出ました。
これも、自然現象の議論としては深いものとは言えない。
http://science.sciencemag.org/content/361/6406/1019
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2.態度の問題 (以下、個人の主観)
「研究者」と一口に言いながら、求道者・科学者(ゲームプレイヤー)など、態度があり得る。
求道者は、自分の(自然への)理解を深めるために物事を掘る傾向がある。
京大には、この種の哲学が流れている様に思う。これはとても良いことである。
しかし求道者の活動は、「科学という位置づけで自分の仕事がどういう意味を持つか」という視点が欠ける傾向にある様に思われる。
これは必ずしも批判ではない。世間のゲームに惑わされないからこそ見つかる発見も多い。
例えばノーベル賞につながる発見などはこの手の態度から見つかる傾向にありそうだ。
科学者は、「自分の発見にどのような価値があるのか」という視点を持つ。
しかし、科学者の態度は、厳しい言い方をすればゲームプレイヤーである。
科学というゲームで、遊んでいるのだ。
ちなみに僕は、科学というゲームで遊んでいる感覚がある。
ただ、研究の時間の多くは「自分が楽しい。だから、ただやる」って感覚である。
そして、自分が見つけた小さな宝石を世界の人に知ってもらいたいと思っている。
子供の時に、道端で見つけた綺麗な石をお母さんに見せたかった感覚に近い。
「僕、こんなの見つけたんだよ!みんなみてよ!!」って感覚が近い。
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3.薄い議論がダメなのか
最初の問いは、「薄い議論は良くない」が暗黙に仮定されている様に思われる。
ただ、良く考えると、別に薄くても深くてもどうでもいいじゃないかって気がしてきた。
自分がただ楽しい。それで満足だし、自分が楽しんでいれば別にその良し悪しはあまり気にしなくていいのではないか。
(良し悪し、にも、係言葉が仮定されて、この係言葉が人によって違うのだろう)
去年出したこちらの論文が、結構お気に入りなのだが、ローレンツモデルと呼ばれるおもちゃのモデルを使って、ただ数式をコネコネしている。
データ同化における、「観測を同化する順番って大事なのかな?」という疑問に対して色々やった試行錯誤を示してるのだが、
「そこに何の意味があるのか?」とか、「何の役に立つのか」みたいな視点は無くて、「ただ楽しいからむしゃくしゃしてやった」てな感じである。
https://journals.ametsoc.org/doi/abs/10.1175/MWR-D-17-0094.1
ちなみにこういうマニアックな研究を好きなマニアは世界にいたりして、そういったマニアとの会話は非常に楽しい。
野球の話するのと感覚は一緒。
また、何の気なしにやったことが、「あれ?実はこれ、天気予報でも使える示唆を含んでないか??」となって研究が進んでいる。
ありきたりだが、何が世の中の役に立つのか、本当に分からない。
やってみたら知らないことが増えて、やりたいことがもっと増えるってのはよくあるパターンだと思う。
よっぴーの森林火災なんかもそんな感じの研究だろうと推測します。
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4.暗黙の仮定
本当に、よっぴーは「暗黙の仮定」をしていたのか?
おそらく、「よっぴーの何気ない質問」を「僕がある種の批判と受け取った」というのが一番事実に近い。
こういう現象はよくあって、例えば奥さんの「お鍋のおでんが腐ってた」というLINEを、僕は「なんでタッパに入れて冷蔵庫にしまわなかったの?」という叱責と認識する。
これは、少なからず後ろめたいところがあるから、その「後ろめたさ」が自己言及化されて、何気ない一言を「批判」として認識するのだ。
というわけで、「よっぴーから批判的な質問を受けた」のではなく、「自分の後ろめたさの具現化」が問題だったのだ、と理解しました。
同じような現象は、例えば僕が何気なく、「社会実装よりサイエンスの方が楽しくない?」とかいうと、よっぴーの中に澱を生むのではないかと推測します。
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5.自己正当化のための回答を作っていないか?
これまでの思索で、よっぴーからの指摘を自分なりに咀嚼できたように思う。
しかし、「自己正当化のための回答を作っていないか?」
これは本当に難しい問題である。
指摘に対して、理性的に考えて、だから僕は大丈夫だ、と安心する。
指摘に対して、だから僕は大丈夫だ、と安心したいから、理性的な理由を準備する。
直観だが、後者のアドラー心理学的見解が実際の現象に近いような気もする。
自分の無意識は分からない。分からないから無意識なのだが。
しかし、浮かんだ心の痛みや澱は、自分が後ろめたいから生み出されたものなのだろう。
だから「反射」として浮かんだ感情は、自分の心理を理解する良い手掛かりになる。
簡単に言うと、今の自分の生き方・研究にconvinceし切れてないから、後ろめたさがあるのだろう。
でも、この後ろめたさは、絶対に無くならないものだと思う。少なくとも僕個人は。
曰く、就職しても良かったな。
曰く、京大でポスドクやってもよかったな。
曰く、行政の人とコミュニケーションしながらやる研究、楽しそうだな。
曰く、アメリカでバリバリやってる人ってカッコいいな。
曰く、現地で観測してる人って、みんな楽しそうだよな。
この手の、実現させなかったパラレルワールドは無数にあって、それぞれに対して少なからぬ後悔がある。
これは、今実現されている世界を選択したことへの無責任や後悔ではない。
ただただ、失われた可能性に対して憧れているのだ.
(昔の彼女を思い出すと、良い思い出しか浮かばないのも似たような現象だと思われる。)
というわけで、「自分の中に浮かんだ後ろめたさ」は、避けられないものだし、でもそれがある人生の方が僕は楽しい気がする。
東大・山崎さんなんかはこういうこと思わなさそうだけど。でも、僕はこういうクヨクヨもする自分が好きだったりします。
(このクヨクヨする自分が好き、という発想自体も、自己正当化のための手段なのだろう)
以上、いろいろ考えて、僕は僕が好きなんだなぁ、という感想で終わりました。
独り言にお付き合いいただき、ありがとうございました。
こつきんぐ