2012.11.04 [読書] 中東現代史

中東現代史(藤村信)

前に一回読んだんだけど,頭に入ってないので読み直し.研究室関係でエジプトの方と付き合うこともあって,この辺りの歴史は知っておきたいところ.

基本的に,中東の近代史(1920年代以降)の記述です.不勉強なことに,中東と言えば,イスラム教とユダヤ教の対立って印象でしたがとんでもない.

1.イスラム教徒,ユダヤ教,キリスト教
2.異なる王族(ハシム家,サウド家)
3.共産主義と資本主義
4.特権階級者と市民
5.民族

これらの対立軸が,入れ替わり,立ち替わり歴史に浮き出てくる.正直,興味深い.

と言うわけで,今回は”中東現代史”の要約と言うことにします.基本的な事実の記述と共に,その生起原因を述べていこうと思います.わりかし古めの本なので,湾岸戦争くらいで記述は終わっています.良い本が見つかってないのですが,イラク戦争位まで書いた良本があれば,教えていただきたいです.
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筆者によれば,中東の近代史は,4つの結び目で見ると分りやすいとのこと.

1.1945年の大戦終了から,1956年のスエズ戦争(第二次中東戦争)まで

この時代は,大戦の終了と共に,欧米列強の植民地支配が中東から後退した時代.その象徴として,エジプトのナセル大統領が挙げられます.

2.1958年の汎アラブ主義の高潮の時期から,1967年の第三次中東戦争(六日間戦争)でエジプトがイスラエルに敗れるまで.

イラン・イラク・シリアにおいて,これまでの王制が瓦解した時代.また,エジプトの敗北は,汎アラブ主義諸国のリーダー的立場からの後退を促す.(エジプトは1973年に報復として,イスラエルと第四次中東戦争を起こす.こちらは痛み分け.)

3.1967年から1979年にホメイニ師がイランでイスラム革命を起こすまで.

この間,第四次中東戦争を経て,1977年にエジプトとイスラエルが和解(サダト大統領).この和解は,パレスチナ及びアラブ諸国の,エジプトからの離反を決定的にする.また,アラブの盟主的な立場のエジプトがイスラエルを容認したことで,PLOが活動を活性化.

4.1980年から1991年の湾岸戦争まで

イラク・イラン戦争を経て,イラクがクエートに侵攻.湾岸戦争はイスラム革命による影響が大きい.1987年からは,PLOによるイスラエルへの抵抗活動がより高まる(石投げ革命).

とまぁ,ここだけ読んでも,よく分りませんね.僕も,本の最初に読んだ時は何の事やら分りませんでしたが,一冊読み終えた後だと頭に入りやすい.では,以後は,時系列を基本として本書の要約を書き下していきます.

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1945年の大戦当時は,ヨルダン・イラク等を,ハシム家による王制国が支配していたが,これはイギリスの政策による.イギリスとしては,一部の特権階級に蜜を与えて,自国の石油権益を確保するための政策.そのため,豊富な石油資源にも関わらず,市民が豊かな生活を得ることが出来ていない.イギリスは,このようなハシム家王制を,シリア・パレスチナへ拡大しようと画策.

このハシム家領土の拡大政策に,エジプトとサウジアラビアが反発.エジプトは汎アラブ主義として.1944年にアラブ連盟を設立.サウジアラビアは,王家のサウド家が,ハシム家とは歴史的に仇敵な間柄なため.

この地域の複雑化との原因として,イギリスの三枚舌政策はよく知られるところ.

1.1920年:バルフォア宣言(イスラエルを建国する約束)
長期的に,親英的なイスラエルを建国し,スエズ運河の支配を継続したいため.

2.1915年:マクホマン宣言(オスマントルコに対して反乱を促す)
オスマントルコの脅威を退けたいため(同地域の石油権益の確保).ハシム家に対し,反乱の見返りとして,大シリア域のハシム家統治を約束.大シリアは,現在のシリアにパレスチナ・ヨルダン・イラク・レバノン・メソポタミア地域を指す.

3.1916年:サイクス・ピン協定(イギリス・フランス間)
トルコが同地域を退いた後の,支配地域の協定.フランスがシリア・レバノンを統治し,イギリスがパレスチナ~メソポタミア地域を統治する.

結局,この3つ目の協定が一番実現されることとなる.でも,ちょっとは約束を果たさないかんよなって事で,イギリス統治下ではあるが,ファイサル・フセインをイラク国王,アブドゥラ・フセインをヨルダン国王とする.完全にEXCUSEな感が出てますね.

バルフォア宣言の後,パレスチナ地域でユダヤ人とアラブ人の衝突が深まる.世界大戦中は,イギリスはアラブ側を支持(中東地域の陸路を確保したいため).ユダヤ・アラブの対立が深まる中,イギリスは1947年にパレスチナ問題を国連に委ねる.これ以後は,アメリカが対処に当たることとなる.なんて勝手なやつなんだ.

1947年:国連にて,パレスチナのユダヤ・アラブによる分割統治案が可決.これをもって,イスラエルはイスラエル建国の根拠としている.

1948年:パレスチナからイギリスが撤退し,イスラエル建国.ふざけんなって感じで,アラブ王国諸国がイスラエル進軍(第一次中東戦争).この戦争は,どう考えてもアラブ側が有利だったが,その中でアラブ王国間で対立が起こり,イスラエルは独立を確保.
何となく,十字軍に似てる感じ.この出来事は,アラブ諸国において,王制への不満を募らせることとなる.

1951年:イランが石油国有化を宣言.もともとイランの石油はAIOCなるイギリスの傀儡会社が押さえていたがイランが反発.
石油国有化を受けて,イギリス・フランスはカルテルを組み,イラン石油の市場からの締め出しを図る.結局これで経済が立ちゆかなくなり,国有化は失敗.だが,この事件はアラブ諸国に,イギリスの支配力が昔日のほどでは無くなった,と映る.

1952年:エジプト革命(王制から軍事クーデターにより体制が変わる)ナセルが大統領就任後,スエズ運河の国有化を宣言.イギリス・フランスが反発.イスラエルを焚きつけて紛争を起こさせ,調停という名目で軍を進める.アメリカ・ソ連が両国を非難.結局これで,スエズ国有化は達成される.

”ナセル主義”なる言葉で,革命はシリア・イエメン・リビアに派生.ナセル主義は,以下のような要素を持つ主義.客観的にも,この時代・この地域で受け入れられると思う.
1.イスラム圏の同調(イスラエルは,協調の不和が原因だった).
2.石油権益の確保(一部の貴族が少しの蜜を得て,国内の石油資源を西欧に奪われている.市民は疲弊.)
3.米ソの冷戦対立からは中立を図る.
4.社会主義(王制への反発から,下流層の権益拡大を図る).

米ソからの中立を図るものの,社会主義的な面から,ナセルはソ連に接近することとなる.また,バアス党の活動がシリアで活性化。バアス党は,アラブ語族の統一を目刺し,社会主義経済の建設を目的とする.と言うわけで,バアス党の活動は,ナセル主義に結構近い.欧米列強によって,これまで,対立させられてきたって感じなんだろう.もっと俯瞰的に見れば,俺たち仲間なんだから同調しようぜって流れ.アジアやアフリカでも良く聞く話ですね.

そんな中,アメリカはアイゼンハワー・ドクトリンを発表.ソ連に近づいたナセルへの危機感から,反社会主義国に軍事・経済援助.イラク・レバノン・サウジアラビア・パキスタン・イラン・トルコが同調.アラブの王国は,同調している(ナセル主義は体制を覆す活動であるため).

1958年:エジプト・シリアの統一。政情不安のシリア大統領の要請もあり,エジプトとシリアが併合(すげー).もともと,ナセル主義とバアス党の活動は理念も近いため.

これに王国は反発し,イラク・ヨルダンは連邦を形成(どちらもハシム家統治国).また,元々仲の悪かった,サウジアラビアも同調(王制が覆されるよりマシ).こんな仲,レバノンで内乱.政府は親米を維持しようとしたが,ナセル主義を標榜する民衆が政府を倒す.

1958年:バグダート革命(王制が倒れる事で,イギリス支配の終焉.)。これでナセルに近づきそうなもんだが,石油の利権問題でイラク・エジプトは対立.(王制が倒れたと言っても,特権階級が支配するように変わったため,ナセル主義は邪魔).カセム大統領はナセル主義のアレフを投獄

1961年:エジプト・シリア・イエメンの分離。エジプトの高官がシリアで高圧的だったのが,対立を深めるきっかけとか何とか.全体的に,エジプト側がシリアを下に見てたのは確かだろう.

1963年:バース党がカセム政権を倒し,投獄されてたアレフが大統領就任.シリアでもバース党が力を持つが,このバース党同士は仲が悪い(石油の問題).これで,中東にはカイロ・バッグダート・ダマスカスの三極構造になる.

1962年:イエメン内戦。8年間の内戦が始まる.ナセル主義の軍事クーデターをエジプトが支持.サウジアラビア・イエメンの王国が旧体制(王国)を支持して,内戦が深刻化.

1966年:シリア・エジプト・イラク・ヨルダンが軍事同盟.パレスチナ問題を通じて,イスラエルとの緊張が高まってきたため.この辺は,1964年に設立したPLOが活動を過激化させてきたのが背景とし強い.

1967年:第三次中東戦争(六日間戦争)。イスラエルが急襲し,シナイ半島(エジプト),ゴラン高原(シリア),ガザ(パレスチナ)を占領.ナセルからサダトへ,エジプトの政権意向(親ソ連→親アメリカへ変わっていく).サダトは開放経済へ移行し,イスラエルに和平を提示する.この和平提示は,イスラエルからは拒否されたため,またイスラエル・エジプト間で緊張関係に.

1973年:第四次中東戦争(贖罪日の戦争)。当初エジプトが有利だったが,後にイスラエルが挽回.結局,アメリカ・ソ連が調停に入り,痛み分け状態.この調停の間に,サダトはアメリカに接近していく.また,この戦争間は,産油国がイスラエル支持国への石油の輸禁をしたため,第一次石油ショックを引き起こす.

1974年:サダトがイスラエル訪問.

1978年:エジプト・イスラエルで和平調停(アメリカの仲裁)。これに対し,アラブ諸国はエジプトを非難(イスラエルを認めるのか!).分るけど,いつも全面に立たされて戦争をしてきたエジプトが気の毒な気もする.エジプトとしては,なんで俺ばっかり損な役回りなんだよって所もあるでしょう.とはいえ,アラブ諸国はエジプトに対して石油の禁輸を決定.苦しいエジプトは,よりアメリカに接近していくこととなる.

1975年:レバノン内戦。元々は,キリスト教マロン派が多数を占め,政治を動かしてきた.しかし,パレスチナ人の流入もあり人口構成が変わり,イスラム教徒とキリスト教徒間で内戦が始まる.イスラム側が有利な中,バース党政権の隣国シリアはキリスト教側を支援(なんでだ!?).これも理由があって,シリアはゆくゆくは大シリアとしてレバノンを併合したいため,イスラム教側の一人勝ちは困る.同様の理由で,キリスト教側が盛り返した内戦後期は,イスラム教側を支援していくこととなる.イスラエルも介入し,キリスト教側を支援していき,一時南部レバノンを実効支配(後撤退).シリアは東北部レバノンを実効支配かに置くこととなる.

1979年:イスラム革命(イラン)。皇帝に対し市民が反発し,ホメイニ師が迎えられる.イランは聖職者支配の国に.この「聖職者支配」の流れの波及への恐れが,隣国で高まる.

1979年:ソ連がアフガニスタン侵攻。イスラム化するアフガンを止めようと考えた.当初はすぐに終ると高を括っていたが,泥沼化.1989年撤退.この失政はソ連の崩壊を早める結果となる.

1980年:イラン・イラク戦争。イラン革命の余波を恐れるバース党イラク(フセイン大統領)が,イランに侵攻.石油王国でのイスラム革命を恐れるアメリカは,イラクを支持.

1990年:イラン・イラクの調停

1990年:イラクがクエート侵攻(湾岸戦争勃発)。フセインは,「イスラエルがパレスチナから撤退すれば,我々もクエートから撤退する」と言うが,アメリカは聞かない.アメリカが侵攻し,イラクは袋だたきに.寸前のところで,イラク国内のクルド人・イスラム教シーア派による政権樹立を恐れたアメリカは,最後にフセインを助ける.クルド人地域に油田が多いためで,クルド人建国による同地域の不安定化を,アメリカは恐れた.結局,フセインが復帰し,クルド人・シーア派の内乱を鎮圧.

湾岸戦争の後,フセインの言ってたのって正論じゃね?って雰囲気になる.「イスラエルがパレスチナから撤退すれば,我々もクエートから撤退する」イラクを裁いておいて,イスラエルは無罪放免って訳にもいかんですな.

1991年:中東和平会議が始まる.イスラエルとしては,アメリカが言うから参加するしか無いが,非積極的参加.もともと,パレスチナ地域は,神がユダヤ人に与えたもう土地であるし.しかし,1987年~1993年の石投げ運動(パレスチナ人)を押さえることもできず...

1993:オスロ合意(パレスチナ自治を目指す和平合意)やけど,イスラエル国内の右派は当然反発.まだまだ平和への道のりは遠い.
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長々と書きました.事実と知ってる事件は数多くあるが,流れは全然分ってませんでした.こう言う,歴史をひもとく流れを理解するのが,本当の歴史教育だとも思います.

中途半端なところで止まって閉まったので,オスロ合意以後の中東近代史も勉強して行こうと思います.



中東現代史 (岩波新書)

  • kotsuking
  • 関東の某国立大学、教授。他に、JST・さきがけ研究員、理研・客員研究員、気象予報士。京都大学大学院で博士(工学)を取得。
    スーパーコンピューターを駆使して天気予報の改善に取り組むデータ同化研究者。座右の書は「7つの習慣」。

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