2012.02.15 [考え事] 羊飼いの幸福

最初に、質問です。あなたは1000円を渡され、見知らぬ誰かと分けるように言われた。
全額手元に置いておいてもいいし、一部を自分、残りを相手に渡してもいい。

ただし、相手には拒否権があり、相手がその案を受諾したらあなたの提案通りに配分されるが、相手が拒否したら二人とも1円ももらえない。

さて、どう提案するのが合理的であるか?

おそらく、大体の人が自分を400~800円位にするだろう。
額自体が問題ではなく、それが普通だということです。

ところで、現在の標準的経済学が考えているすべての人は「完全に合理的」な判断をする。
「完全に合理的」とは、自分の利益を最大にすることで、他人の不利益はまったく考慮しない。

すべての人が「完全に合理的」な社会で、人は先ほどの問題に対してどのような答えを出すのか。
答えは 自分を999円、相手を1円 に配分する。

なぜなら、相手も「完全に合理的」であるから、1円以上であれば必ずYESという。であれば、あなたの利益を最大にするには、自分を999円にするのである。

こんな世界、何かがおかしい。
それでも、今の経済はこのような人のモデルで回っている。

ところで、「完全に合理的」な人ってなんなのか?
例えば、ガムを食べた。ゴミが出る。ゴミを持ち歩くのめんどくさい(不利益)
ポイ捨てしても自分は困らない。じゃぁ、ポイ捨てしてしまおう。
こんな行動をとるだろう。

このような人が社会に出たら、万引きはするし、果ては殺人もいとわないだろう。
実際にはこのような行動を制限するためにモラルや法律が存在する。
それにより、そのような人に不利益というファンクションを持たせるわけである。

もしもの話。
自分の子供が、「殺したいやつがいる」とあなたに報告してきた。

「相手がかわいそうでしょ?」
「別にかわいそうじゃないもん。」

「周りの人が悲しむでしょ?」
「別に僕は悲しまない。」

「警察に捕まるよ?」
「それでも構わない。じゃぁ逆に、なんで人を殺しちゃいけないの?」

さて、何て答えよう?
藤原正彦か,養老孟司かわすれたけど,こういったことを論理で突き詰めるのは難しく,どこかで「ダメなものはダメ!」という論理の底が必要であると論じている.
他国であれば,宗教や道教が論理のそこになりえるのだろうけど,現在の日本には残念ながらその様な強い意識はない.

結局のところ、人の行動を制限するのは、法律やモラルしかない。
でも、なんで法律やモラルは必要なのか?
答えをお持ちの方は、ぜひ教えてください。

法律やモラルによって、自分の行動を制限されることはよくある。
電車の中で携帯で話しちゃいけないし、ゴミをポイ捨てしちゃいけない。

こんな法律や道徳なんて、なかったらいいのに。
そう思うこともよくある。

なんで法律やモラルが必要なのか?
というわけで、今回の話。前置きが長い.


「羊飼いの幸福」

ある一定の土地に、羊飼いが5人住んでいたとする。
羊飼いは自分の暮らしを豊かにしたい。 羊の毛をもっとたくさん収穫しなければ。
よし、羊の数を増やそう。 これが羊飼いの合理的な考えである.

5人がこの発想にたどりつき、5人とも羊の数を増やしだした。
羊は草を食べる。そして草を羊が食べつくしたとき、羊は生きていけなくなる。
羊を失った羊飼い達は、路頭に迷う。

5人のうち、4人がこれを理解して、羊の数を増やさないことにした。
でも一人は、羊の数を増やし続ける。 やがて、その一人の羊飼いは富を独占していく。
いずれ、4人の羊飼いはこの一人のために淘汰されてしまうだろう。


これは大学で先生が話してくれた話。そんで、僕がとても好きな話。
これが社会の縮図なのではないでしょうか.

この話には、2つの筋がある。

一つ目は、「全体の最適解」と「個人の最適解」は逆である、ということ。
例えば、寒いから暖房をつける。
自分は満足だが、CO2が増え、巡り巡って地球の気温が上がってみんなが不幸になる。
今日は車で学校に行こう。 喉乾いたから、ジュースを飲もう。

多分僕がキーボードを打つ一つの動作であれ、多分全体の最適解から離れてしまう。
直感的にはすぐ理解できるけど、普段からそれを意識することはあまりないし、わかっていても辞めない。
「個人の最適行動」にも程度があるが、ある一定以上の行動を、羊飼いはモラルで規制しようとした。
けれども、それにも限界がある。

そして、二つ目の話は、モラルにも限界があり、それを防ごうとする律が必要であるということ。
ただ一人の最適化行動をする羊飼いをなくすには、みんなで規則を作るしかない。
けど、その規則でも羊飼いを制限できなかったらどうする???

法律やモラルというのは、人々の個人の最適行動を制限し、全体として社会の最適行動を目指すために存在しているんだろう。
それが僕なりの考えです。
両方必要だし、片方だけじゃ制限できないこともある。
でも、モラルは効きにくいし、法律は効きやすい、気がする。
だけど、法律の重みをましていくと、その社会は滅びるといわれている.

歴史上、法家思想で国を統治しようとした秦は早く滅び、儒教で国を統治した漢は長く栄えることができた。
法律によっても制限できない行動は、もうモラルでは止めることができない。
子供が本当に自分が死刑になっても殺したい人ができた時には、もう止めることはできないんじゃないか?

社会が法を重視すればするほど、人々のモラルは荒廃していく。
どうしても「法律にないからいいや」「怒られないからいいや」って発想になってしまうから。

僕が大事だと思うのは、まずモラルありきで、それを補足するために法があるんだと思う。
最初から法で縛ろうとしたら、モラルは生まれない。

最近は、世の中がどんどん法を重視する方向に向かっていると感じる。
市場主義とか関係してるんだろうな。 僕も自分自身がモラルが高いとは思えないし。

どうすればいいのか分かんないけど、何かまずい気がしませんか?
でも、羊飼いの話を知っていれば、少しは違う気がしてこの日記を書きました。

法によっても縛れない羊飼いが現れたらどうなる?
最後に制限できるのは、道徳であり、モラルです。
結局は教育ですね。

僕自身、自分のモラルを高める事は,大きな課題であります.

  • kotsuking
  • 関東の某国立大学、准教授。他に、JST・さきがけ研究員、理研・客員研究員、気象予報士。京都大学大学院で博士(工学)を取得。
    スーパーコンピューターを駆使して天気予報の改善に取り組むデータ同化研究者。座右の書は「7つの習慣」。

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